官僚になれなかった夏

はじめまして。ブログ初心者のNao-Naoと申します。このブログでは日常の時事問題や公務員試験の勉強・受験時の心構え、就職活動等について書いていきたいと考えております。何卒よろしくお願いいたします。

★【過去問】国家公務員総合職試験(政治・国際区分)政治学★

おはようございます。

Nao-Naoです。

 

本日、私は有給消費の一環としてお休みをいただきましたので一稿書かせていただきます。

 

今回は趣向を変えて公務員試験の過去問について考えていきたいと思います。

過去の記事ですと、以下に貼り付けたのが趣旨に最も近いですね。

 

nao-nao.hatenadiary.com

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 *多分に漏れず、全文を載せると著作権の関係から問題になる可能性がありますので、端的にまとめなおしておりますこと、ご承知おき下さい。可能な限り、問題文の本意から逸れないようにはまとめているつもりですので、何卒宜しくお願い致します。

 

以下、問題、

 

政治学】民主主義(デモクラシー)について…(中略)…今日においては,民主主義を超える政治体制は存在しないというのが大方の見方である。このような民主主義に関する政治理論の展開を複数の研究者を挙げながら論じなさい。

 

この時、私が思い浮かんだのは「シュンペーター」「ダール」「ルソー」ぐらいでした。この程度では論述できるわけありませんし、完全な準備不足でした。

 

今でしたら、もう少しまともな内容で書けるのではと思います…。

 

<考え方(一例)>

「理論の展開」を求められていますが、まずは民主政の歴史から述べなければ字数は埋まりません。

民主政を初めて実践したのは古代ギリシャ都市国家(ポリス)アテナイであった。この時の選択可能な政体としては①一人の王が支配する王政、②少数の優れたものが支配する貴族政、③多数を占める人民が支配する民主政、がある。

しかし、平等の範囲は市民権を持つ成人男子に限られており、女性や奴隷は当然のごとく排除されていた。この「平等原則」は既存の社会的ヒエラルキーに挑戦する非常にラディカルな一面もあったため、プラトンを筆頭とする反民主主義的傾向を持つ論者達は無知な民衆とそれを煽る扇動者(デマゴーグ)による悪しき政体という判断に至ることになる。

総合的に俯瞰して考えると、古代の民主政は「直接民主主義」のことを指しており、今の私達が考える民主制とは一線を画すものであることは明白である。

その中で最も大きな理由は治者と被治者の同一性である。今日の民主制下においては投票を行う被治者は立法行為を行えず、治者のみが立法行為を行う。これは代表による政治的意思決定という「代表制」と結合した「代表制民主主義」が今日の民主政だからである。

 

この「代表制」は中世から近世の欧州で見られた身分制議会に源を求めることができる。しかし、身分制と言われるだけあり、選挙権・被選挙権共に極めて不平等なものであった。ここでは「財産」が大きな要件となり、制限選挙が実施されていた。この考えの根底には財産を持つ者のみが経済的・精神的独立を維持し、健全な政治的判断力を行使するに足る高度な教育を身に付けているという理解があった。

バークはこの時、「国民代表」の代表観を生み出した。選挙民は議員の優れた政治的判断力を信頼して一票を投じるのであり、両者の間では、国民全体の利益を追求してもらうための一種の「白紙委任」が行われていると見る考えである。この考えはエリート制と極めて親和性が高く、身分制の側面をフォローすることになる。

選挙民の意志や利害は国民全体の利益の前におろそかになってしまうのも致し方無いことを示しており、古代ギリシャの治者と被治者の同一性を崩してしまいかねないものであった。

 

その後、人民主権論が急進的なプロテスタントによって主張されるが、それを理論建てしたのはルソーである。ルソーは『社会契約論』において、国民は自分の一身と全ての力を結合させ一つの共同体を作る。この共同体は各人の意志や利害に影響されない超然的な「一般意志」によって運営されなければならない、としている。

この前提にはもちろん条件があり、それは市民全員が強い共同体意識を持ち、公共精神を養うことある。

一般意志を基にルソーは代表制を批判したが、人民全員の直接参加、徳の重視という点に古代民主政と親和性はあるものの、行政活動に必ずしも全員が関与する必要はないとしている点で一定の距離があることの認識は必要である。

ルソーの考えはそのままの形で実施されることはなかったが、アメリカ独立戦争フランス革命において理論的な支柱となり、理念に大きな影響を与えることになる。

 

自由主義と民主主義は圧倒的な権威を誇ったカトリック教会に対して共同戦線を張っており、教会勢力は双方にとって共通の敵であった。

カトリック教会は権力が集中した王権そのものであり、閉鎖的、身分制的であったからである。

しかし、教会勢力が衰退するようになると、自由主義からは民主主義が自由実現のための要求を阻む障害のように感じるようになり、一方の民主主義からは自由主義が人民主義を阻む大きな壁と認識するようになっていった。

 

自由主義を構成する中には「私的所有権の不可侵」があり、所有権の尊重という考えは裕福な財産所有者による寡頭制支配を正当化する論理へとすり替わり、自由主義の柱はブルジョワジーのエリート支配のための格好のイデオロギーへと転化してしまった。

一方の民主主義は私有財産の制限もしくは廃止を求めるような社会主義思想が加わり、互いに緊張感を高め合ってしまった。

 

欧州より先に民主主義を導入したアメリカを題材としてトクヴィルが『アメリカのデモクラシー』を記した。その中で、民主主義という制度には、多数者が数の力で少数者の権利を蹂躙する「多数の暴政」が起こる危険性がある、と主張する。

直接的な暴力が介在することではなく、利益誘導という手段によって人間の自由を抑圧する「穏和な専制」が成立するとしていた。

 

また、ミルも『代議制統治論』において、個人の権利と利益の擁護という自由主義の理念を守りに抜くためには、全ての市民が政治的意思決定に参加する権利を持つ必要がある、民主的な参加こそ正に自らの選出した代表の同意した法律によって統治される自由である、と主張し、民主主義と自由主義の誤解を解く重要な役を務めることになる。

ミルは少数の有識者に複数投票権を与えるというエリート主義的な考えも見られたものの、選挙権無くしては個人の権利を守ることはできないことを明確にした点でその議論は正に自由民主主義を理論的に完成させるものであったと評価することができるであろう。

 

…以上書き連ねてまいりましたが、私の考え方の一例ですので、是非ご自身でも考えてみて下さいね。良い考え、答案ができましたらお教え下さい。

 

参考にさせて頂いたのは有斐閣の『政治学』です。

下にリンクを貼っておきますので是非公務員を志望される方は一読くださいね。

 

 それでは、また近いうちに書くことができるよう、努力したいと思います。

本稿を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

Nao-Nao